『哲学入門 (ちくま新書)』を読んでみよう
第一章 意味
本章では「意味」が扱われる。
rashita.icon目指すのは序章で確認された、形而上的な(超自然的な)観点を取ることなく、「意味」というもの唯物論・科学的に扱うことだろう。
意味が分かっているかではなく、知能がある存在として認定できるかという実験であるはず
部屋の中のジョンは中国語を「理解」しているのか
カテゴリ錯誤
ジョンと説明書のセットで考える
システムによる創発
サールにさらに反論する
部屋は動かない
動作がない
では部屋ではなくロボットであれば?
単純なロボットであっても心があるとは言いにくい
エネルギーがなくなったことをトリガーして「エネルギーを補充してください」という音声を発生させることはできるが、それはその「意味」がわかっての発言ではなく、人間がそうプログラムしているだけ。
人間が問題解決をしている
こうしたロボット=機械は、問題解決の主体ではない
ロボットは生存するという必要もないし、欲求もない。その点が生命とは違う
生命は生き残るという目的があり、そのためにさまざまな行動を取る
その行動が、意味を生じさせている/心を生じさせている
「意味」とは何かというのは、この水準においてはじめて思考可能になる
というのが前半部分で著者が提示したいこと
回りくどいように思われるが、哲学的な議論を一応一本の筋で整理してくれてはいる
後半は認知科学の知見が参照される
認知科学における認知
認知科学も一枚岩ではない
初期の頃に共有されていた(つまり今はメインストリームとは言い難いという含意)認知観・人間観
古典的計算主義
表象ちおう存在者を認めること
思考の言語仮説
コネクショニズムのような異なる立場もあるが以下のように反論
(1)認知の対形成
(2)認知の生産性
(3)狭い意味の計算主義
(4)統語論的エンジン
この考え方だと、人間の脳内で起きている情報処理は、コンピューターの処理と変わらない、ということになる
もしそうだとすると、コンピューターが意味を持っていないなら、私たちも意味(の理解)を持っていないことになる
中国語の部屋が提示する一番大きな問題はこちらにある
ここまでの話の流れで言えば、意味(の理解)は生きものが何かする場面で問われるべきなのだが、「生きものが何かすること」→認知の捉え方が古典的計算主義であれば、そこには意味の出番がなくなってしまう、かのように見える。
そこで問いを仕立て直す